(前編に続く)能登地震半島以前、1日2便(朝・夕)あったANA「羽田=能登」だが、現在は朝便の往復のみ運航し、そのため、能登での2泊の旅程では、実質的に3日目の行動時間が確保できない。(写真:豪雨後、ボランティア団体の支援物資配布)
【奥能登レポ(前編)】地震と豪雨に揺れる能登、復興の歩みを探る旅の準備と混乱 |
■能登訪問を遠ざける、もうひとつの要因
奥能登レポ(前編)では、個人の能登訪問を遠ざける要因として、馳浩石川県知事の発言や首都圏メディアの報道姿勢の影響を指摘した。それに加えて今回は、飛行機を利用した能登へのアクセスに関する課題についての指摘したい。
現在、ANAの「羽田=能登」間のフライトは1日1便に制限されており、さらに金沢へ1時間かかる「小松空港」や北陸新幹線「金沢駅」から奥能登へのアクセスは、まだ脆弱なのと里山海道を利用して、3〜4時間かかる。このようなアクセスの不便さは、ボランティアや旅行者にとって心理障壁となり、能登訪問を遠ざける原因となっていると考えられる。
2015年に北陸新幹線が開業し、金沢までのアクセスは大幅に改善したが、能登半島へは引き続き能登空港が重要な役割を果たしている。ANAは冬ダイヤ(10月27日〜)で便数を増やすことを検討したが、最終的には1日1便の継続が決定した。
8月の冬ダイヤ発表前の7月、朝日新聞が「ANAが冬ダイヤで2便体制に復帰する調整を進めている」と報じた。それもあり、1日1便の継続が決まった時、地元関係者は落胆したであろう。
能登空港(のと里山空港)は2003年にANA専用の地方管理空港として開港した。石川県は現在、年間搭乗率が62%未満の場合、ANAに最大1億円の補填を行う「搭乗率保障制度」を設けて、航空機の発着維持を支えているが、運航決定権はANAにある。
ANAは地震後、2023年度内に北陸の空港への支援者や救援物資の輸送を無償化し、さらにマイル寄付や500万円の義援金を提供するなど、積極的な支援を行ってきた。現在は関係者や支援者向けに運賃割引を提供している。
しかし、首都圏から能登を訪れたいと考える動機の強いボランティアや旅行者には、従来料金が安価な路線に対する割引よりも、1日2便の運航体制を復活させることこそが利便性が高い。さらに、かつて頻繁に発表されていた「羽田=能登」間の「今週のトク旅マイル」は、地震後には見かけなくなった。
コロナ禍で経営危機に直面したANAは、自助努力に加え、政府からの支援を受けて経営を維持した。2023年3月期には過去最高の利益を記録し、2024年3月期にはさらなる利益向上が見込まれている。
■約3年ぶりの能登入り
ANA機は予定より少し遅れ、10:00過ぎに能登空港に到着した。レンタカーをピックアップする際、スタッフに豪雨について尋ねると、「輪島がひどくて心配」という。
2日間の奥能登での行程は、初日に輪島市と穴水町、2日目に能登町と珠洲市に訪れる予定だ。2日で4市町を回るのはタイトだが、今回訪れる場所は市街地に集中している。急げば回れるだろうと考えながらも、やはり運航本数の改善を求めたくなる。
能登入りは、コロナ禍の2021年11月に能登町に釣りに訪れて以来、約3年ぶりとなる。その際、直ぐの再訪を誓った思ったものの、結局訪れられなかった。旅の終わりに「また来よう」と心に決めても、実際に再び訪れる機会を持つのは難しい。
■輪島市街地の状況
まず輪島市役所を目指した。輪島を訪れるのは約12年ぶりだ。その頃、能登のPRに携わっていたため、輪島には何度か足を運んでいた。当時、輪島朝市の通りを歩くと、出店のおかあさんたちの積極的な売り込みに圧倒され、気づけば両手にお土産がいっぱいになっていたことを思い出す。
空港から県道を走ると、道路のたわみや多数の赤いコーンが目立ち、ひっきりなしに工事関係者のトラックとすれ違った。今のとこと天災を逃れている東京で暮らしている自分にとって、これまで見たことがない光景が広がっていた。
途中、崖が大きく崩れている場所に遭遇し、思わず車を停めたが、その後も同様のがけ崩れが次々と目に入った。少し先には、ボランティアが滞在するキャンプ地があり、この光景も繰り返し目にした。
■河川を決壊させた地震の瓦礫
空港から約30分で輪島市役所に到着。街は茶色い砂埃に覆われ、豪雨被害の影響が色濃く残っていた。市役所前の河原田川が決壊し、川底の砂が一般道に押し上げられ、それらが乾燥したことで空気中に舞い上がっている。
住民から河川決壊の理由を聞くと、上流から流れてきた木や枝が橋に詰まり、川の水が溢れて街に流れ込んだという。これは、地震の残骸が川を塞ぎ、決壊による2次被害が発生したことを意味する。
■地震からの復興が進展しない街が襲われた
街を歩くと、倒壊した家屋が至る所に残されており、地震直後の状況がそのまま放置されているが、その隣の家には今も人が住んでいる様子も伺える。
また、玄関に「家屋調査済証」が貼られ、倒壊の危険を警告している建物も多い。外見が無事に見える家も、建物の構造や内部が破壊され、住民が避難していることが少なくない。何もかもが異常な光景が目に飛び込んでくる。
河井小学校前の交差点を通りかかると、7階建ての倒壊したビルが目に入った。映像でも見ても衝撃的だったが、目の前に横たわる現実のビルに言葉を失う。そのそばを工事作業員のグループが歩いて過ぎていくが、倒壊しているビルに目を向けることもない。9カ月が経ち、大人はそれを事実として飲み込んでいるだろうが、今も校庭の仮設校舎で授業を受ける小学生たちの目には、どのように映っているのだろうか。
隣人2人が犠牲となったビルについては、撤去を求める声が強かったが、原因解明が必要であり、これまで国交省が倒壊原因の調査を進めてきた。輪島市は関係機関と協議の上、10月7日から解体作業に着手し、解体工事は今年度中に完了する予定だ。
■今行ける能登探し
話を「今行ける能登」に戻そう。次に輪島漆器の体験施設「輪島工房長屋」を訪れた。工房見学や製造体験もできる施設だが、少し前の情報では営業を一部再開しているらしかった。訪れた際は、施設はひっそりとしており、トイレはボランティアや工事作業員が利用していた。現在は復興ベースとしての役割があるようだ。
■輪島マリンタウン「海の駅六銘館」
次に訪ねたのは、輪島港に隣接する観光交流施設「輪島マリンタウン」。まず「海の駅六銘館」では、8月から地元の特産品が再び店頭に並び始めたのだが、訪問時には閉まっていた。次に向かった伝統行事の展示館「輪島キリコ会館」は閉鎖中だった
輪島キコリ会館の周囲のアスファルトに亀裂が見られた。また、館内に展示されているキコリが倒れたりしているとのこと。地震から閉鎖されているが、輪島市に聞くと、「今直ぐではないが、建物の修復は計画している」と話す。
■輪島朝市おむすび
輪島マリンタウンエリア近くの交差点で「輪島朝市むすび。」というテイクアウトのおにぎり店を見つけた。ボランティア団体ジルバーン代表の岩本さんは、地震直後に富山県砺波市内に災害支援対策本部を立ち上げ、継続的に奥能登を支援してきた。8月から地域の生業作りを目的として、この店の運営を開始したという。
若い男性スタッフのひろきさんは、渋谷の大学に通う2年生で、東京で養護施設のボランティアに携わっていた際、そこで出会った人に能登に誘われてこの地に入ったとのこと。半年間の休学を申請し、輪島で出会った大学生2人と仲間になり支援活動に取り組む。間もなく大学に戻るという彼と輪島との絆はこらからさらに深まっていくのかもしれない。
能登の新米を使ったおむすびとアイスコーヒーを購入し、その後、白米千枚田で食べた。
■景勝地を巡る
その後、景勝地を見ようと市街地近くにある鴨ヶ浦に向かった。東西400m、南北150mにわたる海蝕でできた岩礁地帯が広がるが、入口には入場禁止の看板が立っていたため、観察できなかった。
次に、市街地を離れ、車で約20分の場所にある世界農業遺産「白米千枚田」へ向かうことにした。能登半島の外浦沿いを走る国道249号を北上すると、国道沿いの建物や道路が破壊され、並行して見える山々の地肌も崩れている。
異様な光景が次々と現れ、目が麻痺してしまいそうだった。運転中は平衡感覚を保つことに集中せざるを得なかった。
■世界遺産「白米千枚田」
約12年ぶりに訪れた白米千枚田は、地震で亀裂が入り、修復が続けられてきた。しかし、豪雨被害で田んぼの各所から用水が噴き出し、水が溢れてしまった。遠景は美しいものの、被害の痕跡が至るところに残っており、関係者は今後も修復を続けてゆく。
白米千枚田愛耕会のXアカウントを見ると、つい先日に今年収穫した稲を脱穀する様子が紹介され、「地震や水害を乗り越え、お米になりました。頑張ったお米たちです」という投稿されていた。
誰もいない白米千枚田を30分ほど眺め、駐車場でおむすびを食べた。「なにこれ、うまっ」、新米を使ったおむすびは、能登の自然の恵みを感じられる味わいだった。輪島を支援するボランティアは、被災した住民を支援するだけでなく、訪れた人の味覚を満足させるおもてなしの力も身に付けていた。
■農水省職員の行動に感じた違和感
白米千枚田を出発する直前、農水省に属する北陸農政局の上着を着た職員の集団がやってきた。総勢20数名ほどの職員とともに、いかにも霞が関の役職と思われる人物がいた。
その人物は、5分ほど白米千枚田を見渡し、現場を後にした。その場に残った職員たちは、直立不動で深々と頭を下げ、その車を見送る。
その後10月10日の報道によると、小里農林水産大臣が白米千枚田を視察していた。農水省の公式サイトで大臣のスケジュールを確認したが、彼が訪れた各所では霞が関の役職クラスとはさらに違う、特別な受入れ体制が繰り広げられたのだろう。
■湧き水で出会った90歳の男性
輪島の市街地に戻る途中、向こうの山で大きながけ崩れが起きているのが目に入り、車を停めた。地震で脆弱になった山肌に豪雨が追い打ちをかけ、至る所でがけ崩れが起きた。
車を停めた対面に神社につながる小道の境内に、軽ワゴン車が1台停まっていて、高齢の男性が作業をしていた。いくつものペットボトルがあり、その中の水をタンクに移していた。
声をかけてみると、断水のために水を汲みに来ているとのことだった。そこには「名水神様池」と呼ばれる湧水があり、水を汲みに来ていた。本人は集落の危険な自宅を離れ、現在、市街地の仮設住宅に住んでいるが、悪路の中、1人で水を汲みに来ていた。
90歳だと聞いて驚いたが、「自分はまだ元気なほうだから大丈夫。でも、みんな本当に辛くて困っている」と言う。そして、「今さら災害にあうとは」と漏らした。
町外れで二人きり、しばらくそのおじいさんの話を聞いた。方言混じりだったため、すべてを理解できたわけではないが、おじいさんの置かれた厳しい状況がひしひしと伝わってきた。
■フランスパン店「ラポールデュパン」&イタリアン「オリゾンテ」
輪島市の市街地に戻り、輪島朝市むすびで教えてもらった海沿いのフランスパン店「ラポールデュパン」を訪ねた。この店は震災後、2月21日に再開し、街に元気を与えてきた。店主こだわりのフランスパンは地元で人気だ。
餡パンとバゲットを購入したが、その日、バケットを食べ損ねていた。翌日珠洲で、バゲットを買っていたことが幸運を呼んだ。開いている店がなく夕食にありつけなかったため、そのバゲットが夕食代わりとなり、救ってくれた。時間が経過していても表面の食感と中の生地のもちもち感が絶妙で、今もその味わいが思い出される。
こよなく能登を愛するオーナーは、「どこにいても同じ空の下で繋がっている。能登に心を寄せていただけたら嬉しい」と話す。
帰り際、オーナーから、「輪島工房長屋」のそばに知り合いのイタリア料理店が再開しているから是非立ち寄ってみていう。しかし、その日は所要で、まだ店に戻っていないかもしれないとのことだったが、教えてもらった場所に向かった。
イタリアアンレストラン「オリゾンテ」は輪島工房長屋の直ぐそばにあった。店内を覗くと、やはり人は不在のようだったため写真だけ撮影させてもらった。
同店のインスタには、「地元の食材を使って美味しいパスタ・ピザなどを作っています。子供から年配の方まで気軽に来てください」とあり、ネットの口コミでは輪島に来たらこの店と評判だ。
■ボランティア団体の支援物資配布
ボランティアによる支援活動も見逃せない現地の光景の一つだ。イタリアンレストランそばの広場では、多くの輪島市民が支援物資を受け取る場面に遭遇した。広場で支援物資の配布していたのは、登山家・野口健氏が率いるNPO団体ピークエイドだった。
地震後、野口氏が能登の支援に取り組んでいる様子は同氏のXで見ていた。同氏とは直接の知り合いではないが、あることで接点があり、比較的近い距離にいる。あえて輪島で話すことはないので声はかけなかった。
現場では手にした沢山の物資が重く、車まで運ぶのが困難な高齢者が立ちすくんでいる姿を見かけた。「車は どこですか」と声をかけて、10名ほどの荷物運びを手伝った。物資を車のトランクに積むと、「助かる」「ありがとう」との言葉をいただく。
その際、東京から来たことを伝え、「大変でしたね」と声をかけると、多くの住民が口を揃えて、先日の豪雨がいかに恐ろしかったか、自宅や仮設住宅の泥出し作業が大変で、少しずつ今の生活に慣れ始めた矢先、振り出しに戻ってしまったという。
特に、豪雨は地震よりも手がかかり、どうしようもないと漏らす人が多かった。さらに、地震の後は何とかして前を向いて進もうとしたが、今はそれが難しいと、多くの住民が感じているようだ。
なお、「能登は忘れられているから」や「自分たちでなんとかしなくちゃ」というような、胸が痛くなる言葉を何人からも聞いたが、それに対する解決策は無く、「ずっと大変ですね」としか答えられない。
■被災者が被災者を気遣い、ボランティアへの感謝が絶えない
続けて、住民の話に耳を傾けていると、自分自身が困難な状況にもかかわらず、家族や近隣の人のことを心配し、彼らがいかに大変な状況であるかについて説明する。
「私はまだ恵まれている」「(知り合いは)もっと大変で、かわいそうだ」と、自身の自宅に住めず、仮設住宅に入り、浸水まで経験していても、自分よりも他の人を気遣う。
住民に、「これまで国や県からの支援はどうだった?」と尋ねたところ、具体的に助かったという話は一切得られなかった。
一方で、住民はみな口を揃えて「ボランティアさんが〇〇をしてくれた」「ボランティアさんには本当に感謝している」と語り、ボランティアの話題になると明るい顔を見せる。ボランティアの存在が、住民にとって大きな支えになっていることがよく分かる。
■国や県の支援について語らない被災者たち
被災者たちは、国や県の支援についてほとんど語らず、実際に支援を感じていない様子が伺える。倒壊したり、危険認定されたりしている家屋が放置され、インフラ工事の進展もわずかで、被災者の心には届いていない。
長期間にわたって電気や水道のない生活が長引き、避難所や仮設住宅に移らざるを得ない人も多い。これまで築いてきた地域コミュニティも崩壊している。住民の一部はやむを得ず能登を離れ、残された住民たちも先行きが見えない不安に苛まれている。
■明らかな支援者不足
被災地で支援に携わる人たちは、住民の心の支えとなるボランティア、発災直後に救援活動を行う自衛隊やレスキュー隊、インフラ工事などに従事する建設作業員や警備員、そして自治体職員や警察官、内閣府や国交省職員などがいる。
当日は土曜日だったこともあるのか、彼らの活動範囲は街の一部に限られていた。その数が十分でないことが明らかだ。住民たちはこの状況に慣れてしまっているかもしれないが、住民が頼りにする有志のボランティアは限られた人数であり、彼らに依存するには限界がある。
■災害規模と釣り合わない建設作業員のリソース
中でも、公費で派遣されている建設作業員もかなり不足しいているようだ。広範囲な災害エリアに対し、ごく一部地域の河川敷や住宅街、道路でショベルカーを動かしているのは運転手1人で、そのそばには他の建設作業員の姿はない。
また、工事現場で安全を確保する警備員の姿もあまり見かけない。 建設工事のリソースが限定されているのか、人材不足が原因なのかは定かではないが、その不足は建設の素人目にも明らかだ。
ちなみに、大阪万博では、工期の遅れを補うため、今年春には夜間や土日でも作業ができるようルールを改正し、作業員たちは急ピッチで海外パビリオンの建設を進めている。
■再び輪島市街地を通る
気づくと、時間はすでに16時を過ぎていた。まだ輪島での滞在が足りない気がしていたが、そろそろ穴吹町に向かうことにした。道中、気になっていた市街地を通り抜けながら、旧輪島駅にある「道の駅輪島」に立ち寄ることにした。
■道の駅輪島(ふらっと訪夢)
「道の駅輪島」は、旧輪島駅の跡地に建てられた大きな施設で、土産物店、観光案内所、ゴーゴーカレー、喫茶店、バー、そして奥能登バスなど、さまざまな事業者が集まっていて、訪れたら楽しみが見つかる場所だ。輪島の酒蔵・日吉酒造店「純米酒 おれの酒」と醤油味噌メーカー・谷川醸造「サクラ醤油こい口」を購入した。
■カフェ翁
道の駅輪島を出て大通りを渡った先で、古民風の「カフェ翁」を見つけた。既に閉店していたが、店内を覗き、サイトも確認すると、落ち着いた空間で、ゆったり過ごせそうだ。
メニューには、お茶やケーキのほか、サンドウィッチ、スパゲッティ、カレー、ピラフなど、みんなが好きな洋食メニューが用意されている。あとで、オーナーに聞くと、「建物は地元森林組合による能登の樹木を活用した家屋造りのプロジェクトで建てられた合掌造りの店舗」だそう。
■能登を訪れ、今できることを
最後にカフェ翁を見つけられたのは嬉しかったが、わずか5時間で輪島の再開した店舗を巡るには限度がある。現地での移動の難しさを痛感した。また、輪島を訪れたい。
「能登は忘れられている」という住民の声に対しては、ボランティア活動が可能な人は手続きを取り支援に参加する。また、ボランティアが難しい人は、住民と交流したり、地元の店舗を利用したりすることで、「能登は忘れられていない」というメッセージを伝えることができる。
次回の奥能登レポ(後編)では、さらに穴水町、能登町、珠洲市について伝えたい。