問われる「故郷への責任」―東京一極集中と地方衰退 郷断ちと帰省のかたち

先日、日本最大の移住支援団体が「2025年 移住希望地ランキング」を公表(※)し、移住希望者の相談件数が過去最多の7万3,003件に達したと発表した。希望地は群馬が1位、栃木が2位、長野が3位だという。
| (※) 2026年2月24日 2025移住希望地ランキング(公益社団法人 ふるさと回帰・移住交流推進機構) |
この発表は大手メディアより、「地方移住の機運」として一斉に報じられた。だが、ここで示されているのはあくまで「相談」の累計であり、どれほどが実際の移住(転居)に結びついたのかは見えてこない。
一方、住民基本台帳(総務省)ベースの人口移動では、東京圏(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)への転入超過が29年連続で続き、2024年も約14万人の転入超過となっている。「相談」という曖昧さと、「人口」という実数がズレたままでは、東京一極集中は止まらない。その現実は、帰省のたびに目にする故郷の風景にも表れる。
「地方創生」の前提
帰省といえば、年末年始や夏休み・お盆といった長期休暇に集中するため、日常の故郷の姿は見えにくい。それでも、帰省のたびに目に入る風景がある。寂れた駅、空き家が目立つ通り、シャッターの下りたままの商店街。年々、ひとりまたひとりと姿を見かけなくなる高齢の隣人たち。
同級生との再会では、東京での仕事や暮らしを語り合う一方で、目の前で進行する故郷の衰退にはどこか触れにくい。そして休暇が終われば再び東京へ戻り、忙しい日常に身を投じる。気づけば、故郷のことは静かに遠のいていく。
筆者は東京生まれで、いまも東京に暮らしている。祖父母も親戚も東京圏にいたため、「帰省する田舎」がなかった。夏休み明けに同級生が「田舎のおじいちゃんの家に行ってきた」と語るのを、いつも羨ましく聞いていた。
その反動か、学生時代から田舎の風景に惹かれ、国内外を旅した。いまは地域と関わる仕事に携わっている。各地を巡る中で真剣に移住を考えたこともある。だが、どれほどその土地に魅力を感じて関わろうとも、地域が本心で求めているのは、「よそ者」ではないと察した。
「よそ者が地域を変える」。地方創生を語る場面でよく聞く言葉だ。確かに外から来た人が風を吹き込むことはある。しかし「外から来たのによくやってくれている」と歓迎されようとも、その土地ではいつまでも「外から来た人」であり、本人も状況次第では軽やかにその地を去っていく。
少子高齢化と人口減少による地方衰退が語られて久しい。政権が替わるたびに政策は打ち出されるが、決定的な解決策は示されない。
では、衰退が進むその土地を守る責任は、いったい誰が第一に担うべきなのか。全国各地を訪れ、地域の声に触れてきた立場から、「地方創生」の前提そのものを問い直してみたい。
政策が先か住民が先か
日本の少子高齢化と人口減少は、1970年代後半からすでに予見されていた課題である。1990年代には深刻な社会課題として認識されるようになり、すでに30年以上が経過している。
2014年の第二次安倍晋三内閣で石破茂氏が地方創生大臣に就任し、国としてようやく「地方創生」が掲げられた。以降、地方自治体の移住促進、企業による地域連携など、さまざまな試みが展開されてきた。しかし、それらはごく一部の地域で成果を生むことはあっても、全国的な衰退に歯止めをかける汎用的な「決定打」は見当たらない。
有識者からは多様な提案が示されてきたが、制度上の複雑さや政治的調整を要することから、実効性ある政策として導入される例は少ない。加えて、現場感が乏しく、「出版用のアイデア」と見える提言も少なくない。
根本的な問題は「政策の数や内容」なのだろうか。そもそも地域の担い手たる住民の数が減り、地力そのものが失われているからではないか。最大の原因は、止まらない「東京一極集中」であり、人が流出し続ける土地では、いかなる政策も成果に結びつきにくいだろう。
いま必要なのは、毎年新たな制度を積み重ねることよりも先に、「地域で活躍できる人」を取り戻すという発想だ。政策を動かす主体となる住民がいなければ、どんな処方箋も机上の空論に終わる。これは鶏と卵のような堂々巡りではない。地域では、政策よりもまず、そこに生きる人が先に必要ではないか。
「ブラックホール型自治体」都知事と地方知事の対立
2024年4月、人口戦略会議が公表した地方自治体『持続可能性』分析レポート」は、日本の将来に大きな衝撃を与えた。
全国1,729自治体のうち、約43%にあたる744自治体が「2050年までに消滅可能性がある」とされ、東京23区は、地方の若者を吸い込み続け、地域の衰退を加速させている「ブラックホール型自治体」と名指しされた。

この構造的なひずみをめぐる対立は、同年11月に開かれた全国知事会で表面化した。東京一極集中を批判する地方知事に対し、東京都の小池百合子知事は「人口流入が地方衰退を招いているという因果関係は不明確だ」と反論。これに島根県の丸山達也知事が「都合が悪いから理解しないふりをしている」と応酬した。
では、実際の統計はどうか。総務省「住民基本台帳人口移動報告2024年」によれば、東京圏への転入超過は29年連続で続き、2024年も13万5843人が流入。そのうち約8万人が東京都に集中している。この数字を見れば、地方の空洞化と東京の膨張は、無関係とは言えない現実となっている。
小池知事がこの構造を認めたがらないのには事情がある。地方からの人口流入は、東京都の税収増という果実をもたらす。それが、「プロジェクションマッピング」や選挙前の「ばらまき政策」など、他の自治体では実現困難な巨額事業の原資となっている。
結果的に、地方の衰退は、東京都知事の実績作りを支える基盤にもなっている。この非対称な構造が、東京と地方との断絶を深めている。
止まらない東京一極集中と「郷断ち」の構図
地方で育った若者が、進学・就職を機に東京へ移り、故郷に戻らない。昭和の高度成長期に始まった人の流れは、ネットが当たり前になり、AIを手に入れた令和の今も変わらず、日本の社会システムに深く根付いている。リモートワークに積極的なIT企業も、港区や渋谷区、中央区に本社を置くことにこだわり、週1・2回の出社を求める。

上京後の時間が長くなるほど、故郷への責任感は次第に薄れる。結婚や住宅購入という「東京への錨(いかり)」が下ろされると、定住はより現実的なものになる。やがて故郷に残る親族が世を去れば、帰省やUターンの動機は弱まり、故郷との結びつきは静かに解けていく。これが「郷断ち」のプロセスだ。
この流れは、現在70代以上の団塊世代が東京定住の先行例をつくり、その結果として都市部で育つ「上京2世・3世」が根付いたプロセスと重なる。そして今、ミレニアル世代の30代後半から団塊ジュニア世代の50代を中心に、「郷断ち」が進行している。
「東京の身軽さ」という引力
東京は、故郷にあるしがらみから解放される「身軽さ」をもたらす都市だ。その心理的な快適さは、上京者の何気ない言動に表れる。
印象的だったのは、地方の国立大学を卒業し、就職を機に上京した知人の言葉である。彼は上京から既に10年以上経ったにも関わらず、「東京にいると、旅をしているみたいだ。責任がないからね」と口にした。聞きなれない言葉の真意を尋ねると、「特有の人間関係や地域の目から解放され、自由でいられる」という意味だった。彼は20代で起業したが、酒の席で「東京で実現したい夢」を熱心に語る姿が印象的だった。
もう一つ印象に残っているのが、ある県の東京事務所に勤務していた職員の振る舞いだ。視察で地方を訪れた夜、居酒屋で隣り合わせた地元の人に「どちらの方ですか?」と聞かれた彼は、一瞬間を置いて「東京です」と答えた。
方言まじりで話す彼にとって、その問いが出身地を指していたと考えられるが、口から出たのは現在の勤務地だった。相手は戸惑った表情を浮かべ、その場の会話は途切れた。店を出た後、彼は「東京って言っちゃった」と漏らした。赴任してまだ1年足らずだったが、日頃から「ずっと東京勤務のままがいい」と話していた。
一見すると、どちらも軽い開き直りのようにも映る。だが2人とも、社会的には重い責任を負う立場にあった。そんな彼らが選んだのは、「責任ある故郷」ではなく、「身軽な東京」だった。
天災・クマ被害、その対処も担う高齢者
若者や働き盛りの世代がその土地を離れ、少子高齢化が進む地域では、単に経済の縮小だけでなく、地域の「暮らしの基盤」そのものが脆くなっていく。
商店が消え、病院、公共交通が維持できなくなるといった生活インフラの問題はこれまで語られてきたが、近年とくに目立つのは、日常の安全や地域の維持が、残された高齢者に過度に委ねられつつある点だ。
地域からの人口流出が続いてきたこれまでの間、山間部や農村部、県庁所在地でも豪雪や豪雨、地震、最近では相次ぐクマの出没などの自然災害に直面したとき、被害を受けるのも、対応に追われるのも高齢者である地域は少なくない。


見回りや雪かき、倒木の除去、声かけといった避難・復旧の初動に動ける人手が足りず、結果として被害が拡大するケースも少なくない。もし地域に働き盛りの世代が一定数残っていれば、防げた事故もあっただろう。
少子高齢化は、単に経済活動につながる人口の問題ではない。地域を守り、危機に対峙する力そのものが、削られているということでもある。
地域の課題を誰に任せるのか
「地元には仕事がないから、上京するのは仕方がない」。この言葉は、長く上京者の免罪符として使われてきた。しかし、人が去り続ける土地に、新たな産業や雇用が育つ余地はない。
故郷を離れ、東京で暮らしを築くことは憲法が認める個人の自由であり、合理的でもある。だが、その結果として、地域の担い手が減る事実がある。「抜けた穴」は、誰が代わりに埋めるのか。この問いを曖昧にし続けてきたことが、東京一極集中を固定化させ、地方衰退を進めた一因ではないか。
国は「地域おこし協力隊」に毎年400億円前後の資金を投じ、最近は、同じ場所に旅行するリピーターや、同じ地域の特産品を繰り返し購入する層を「関係人口」と定義し、数合わせのような取り組みも行っている。さらに、いま最も力を入れているのは「外国人労働者」の誘致だ。いずれにせよ、その土地で生まれたり、育ったりしたわけではない、いわゆる「よそ者」がターゲットになっている。

地域を支える「外国人労働者」 問われる「故郷への責任」
「働き手が足りない」。この声は東京でも聞かれるが、とくに不足しているのは建設、サービス、介護など、日本人が集まりにくい現場である。その穴を埋めているのが、外国人労働者だ。
地方では、この傾向が1次産業を含む幅広い分野に広がる。農林水産、製造、介護、建設など、多くの現場で外国人が地域を支えている。そうした中、2025年の参院選で「日本人ファースト」を掲げた政党が地方で一定の支持を集めた背景には、外国人依存の急拡大に対する不安がにじんだ可能性がある。その言葉はまた、地元を離れた「元住民」への無言の問いかけとも読める。
東京の大学を出て都内の大手企業に勤めた後、故郷の衰退を見過ごせずUターンし、会社を立ち上げて街づくりに関わる人物がこう語っていた。
「俺たちは、同級生が戻ってこない分まで引き受けて、地域を支えるつもりだけど、現実は外国人の力がなければ成り立ちませんよ」。
この言葉は、多くの地域の実態を映している。だが同時に、政策や社会情勢が変われば、その外国人が去る可能性もある。そもそもその土地で生まれ育ってもいない彼らには、地域を支える気持ちがあるわけでもない。それでも「日本人ファースト」を歓迎する向きはあるだろう。
では、外国人がいなくなったとき、誰がその仕事を担うのか。それでもなお、地域おこし協力隊や関係人口、都会育ちで田舎暮らしに憧れる「よそ者」をあてにするのか。
もし「日本人ファースト」を掲げるなら、まず考えるべきは、その土地と縁のある人物が、故郷の維持にどこまで関わるのかだ。スローガンの前に、自分の責任の範囲を決めておきたい。それは「地元ファースト」であり、上京者にとっての「故郷への責任」でもある。
帰省の頻度とかたち
次の帰省シーズンは夏休みだ。だが、そのような大きな節目でなくてもいい。週末の予定をひとつか、ふたつ手放し、帰省してみる。いつもの様に夫婦や子ども連れでなく、あえて1人がいい。

帰省は季節のタスクのように事務的なものではない。故郷を見失わないための振る舞いでもある。むしろ、昔を思い出せる「素の自分」だけで帰るほうがいい。かつて「何もなくてつまらない」「人の目が気になる」と感じていた地元も、素の大人になれば、見え方が変わり、故郷への解像度が高くなるだろう。
実家を将来どうするのか親や親戚と現実的な言葉を交わすだけでもいい。地元の選挙の顔ぶれを調べ、故郷の活性化に貢献できるのか点検するのもいい。あるいは、地元の商店や中小企業の抱える課題を聞き出し、自分のスキルがその解決の役に立たないか探り歩いてみるのも一つの手だ。
これらは、狭い故郷での生活を離れ、広い東京で一定期間過ごしているからこそ身につけたスキルで解決できる可能性がある。東京に出たのは故郷の課題解決のスキルを身につけるためというストーリーにもなる。
次の帰省で変わりゆく故郷を前に、「自分に何ができるのか」と問い直してみる。その小さな問いこそが、故郷との関係を結び直す最初の1歩になるのではないだろうか。