旅に出るきっかけやスタイルは、人の数だけあります。
そんな旅のかたちをそっとおさめたものが、「どこかへ旅する。」掌編小説シリーズです。
今回の主人公は、27歳の男性映像ディレクター。最近、仕事で心がすり減り、桜の名所である弘前公園を一度も見たことがないと思い立って、急遽一人旅へ。

列車を降りると、風の匂いが少し違った。
東京ではもう散りかけていた桜が、ここ弘前ではまだほころび始めたばかりだった。
27歳。映像ディレクター。
肩書きだけ見れば、それなりに整って見えるかもしれないけれど、
この春、ふと気がついた。
自分の撮る映像に、感情が映らなくなっていることに。
カメラを構える指はまだ動く。
編集ソフトも自由に操れる。
SNSショート動画の再生も好調だ。
でも、なにかが欠けている。
何を撮りたいのか、何を伝えたいのか。
その「何か」が、どこかへ行ってしまった。
弘前の桜を見に来たのは、衝動だった。
SNSのタイムラインに流れてきた一枚の写真。
淡いピンクのトンネルの向こうに、誰かの影がぼんやり揺れていた。
「そういえば、弘前の桜、まだ一度も見たことがない」
そのひとことが、切符を取らせた。
弘前公園の堀沿いを歩く。
観光客のざわめき、子どもの笑い声、シャッターの音。
でも、自分のカメラはカバンの中から出していない。
咲き始めの桜は、どこか初々しくて、
満開のような華やかさはないけれど、余白がある。
その余白に、自分の中のなにかが、少しずつ染み込んでいくような気がした。
石垣に腰かけて、ようやくカメラを取り出した。
ファインダーを覗く。
桜の花びらが風に乗って、ゆっくり流れていく。
その一瞬を、静かに切り取った。
これは、誰にも見せないカットだ。
編集もしない。音もつけない。
ただ、自分だけの記憶の中にそっと置いておく。
もしかしたらそれが、
もう一度、感情を映すための“始まりの編集点”になるかもしれない。
■旅の舞台「弘前」について

物語の舞台となった「弘前市」は、青森県の南西部に位置し、歴史と文化が息づく美しい城下町です。市街地の背後には「津軽富士」とも称される「岩木山」がそびえ、四季折々の表情で訪れる人々を魅了します。
弘前城を中心とした弘前公園は、春の桜、夏のねぷた祭り、秋の菊と紅葉まつり、冬の雪灯籠まつりと、四季折々の魅力を持つ観光スポットです。市街地では、明治から大正期のレトロな建築物や、日本一の生産量を誇るりんご関連のグルメも楽しめます。
<桜のイベント情報>
弘前さくらまつりは、毎年4月下旬から5月上旬にかけて開催され、2025年は4月18日(金)~5月5日(月・祝)の予定。桜の開花状況により変更される場合があります。

見どころ
- 弘前公園の桜:52種類、約2,600本の桜が咲き誇ります。特に、樹齢100年を超える染井吉野の古木が特徴的です。
- ライトアップ:日没から22時まで行われ、夜桜の幻想的な風景を楽しめます。
弘前市は、歴史的な建造物と美しい自然が調和した魅力的な都市です。春の桜の季節に訪れ、その風情を感じてみてはいかがでしょうか。
「どこかへ旅する。」は、旅先でふと見かける誰かの心模様を描く掌編小説シリーズです。主人公の旅を通じて、日本各地を紹介します。 |