旅に出るきっかけやスタイルは、人の数だけあります。 そんな旅のかたちをそっとおさめたものが、「どこかへ旅する。」掌編小説シリーズです。 今回の主人公は、29歳やり手の女性コピーライター。SNSでは明るいけれど、実はプレッシャーと燃え尽きに悩んでいたところ。

SNSを開けば、彼女の投稿はいつだってポジティブで明るい。
華やかなカフェ、可愛いスイーツ、休日の充実した過ごし方。
まるで日常のすべてを楽しんでいるように見えるけれど、
その笑顔の写真を選ぶとき、投稿する指はいつもほんの少しためらう。
なぜなら本当は、その日も疲れていて、誰にも言えない孤独を抱えていることを、彼女自身が知っているからだ。
大阪の有名広告代理店でコピーライターとして働く美咲、29歳。
人気ブランドの華やかなコピーを書き、企画会議では「クライアント受けがいい」として評価されている。でもその評価が積み重なるほど、「本当の自分」との距離が広がっていく気がした。
平日は毎日のように浴びるプレッシャー。
自分の生み出した言葉が誰かに届いているのか、不安になって眠れなくなる夜が増えた。
ある日、終電の帰り道で立ち止まり、コンビニの前でぼんやりスマホを眺めていたとき、ふと画面に現れたのが香川県・瀬戸内海に浮かぶ「女木島」だった。
「そうだ、大学に入学した年に、お母さんと行ったな」
その頃はまだ、SNSも投稿も習慣ではなかった。
海を眺め、ただ潮風を感じるだけで心が満たされた。
「あの感覚」を取り戻したくて、美咲は週末、誰にも告げずに、高松港12時発の女木島行きのフェリーの切符を買っていた。
金曜の夜、高松市内のホテルに前泊。
翌朝は、本場のうどんを食べて、少しだけ香川に馴染めた気がした。
高松港からフェリーに乗ると、船が港を離れるにつれ、何かが遠ざかっていくのを感じた。
約20分の船旅の後、女木島に降り立つと、穏やかな瀬戸内の風が迎えてくれた。
港近くのビーチを歩きながら、波音に耳を傾ける。
瀬戸内の島だし、投稿しようと思えば、映える風景はすぐそばにあった。
波打ち際の光、フェリーの白い軌跡、砂に残る足跡。
カメラを構えれば、いつものようにいい感じの一枚は撮れそうだった。
けれど、その手はなぜか、ポケットの中にとどまっていた。
「あとで撮ればいいか」そう自分に言い聞かせながら、
ほんの少しだけ、撮らないままでいることが心地よく感じられた。
島のシンボル、「鬼ヶ島大洞窟」へと向かう。
険しい山道を登り、洞窟の入り口に立つと、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
中に入ると、伝説の鬼たちの像が並び、静寂が広がっていた。
夕方、海を目の前にするカフェで、地元の人々と交わす何気ない会話。
その言葉はコピーでも、キャッチフレーズでもない。
ただ、美咲自身に向けられた、ありふれた言葉。
普段、クライアントから評価されるような、コンペを通ったコピーとも違う。
でも、その普通の一言が、不思議と心に残った。
大阪へ戻る高速バスの中、美咲は静かに目を閉じた。
飾る必要のない自分でいることが、楽だったんだと、
この週末の旅で、それに気付いた。
そんなことを思いながら、いつの間にか、心地よい眠りに落ちていた。
ふと目を覚ますと、窓の外には、もう都会の灯りがにじんでいた。
自宅に戻り、美咲はスマホの通知設定を静かにオフにした。
SNSをやめるわけじゃない。
でも、タイムラインを意味もなく眺める習慣は、もう手放してもいいと思えた。
「週末の投稿は、自分が本当に伝えたいと思った時だけ。
見たい時だけ見る。それ以外は無理しない。」
そんな小さなルールを、自分だけこっそり決めた。
これまで、誰かの投稿を見て、自分も投稿しなきゃと思っていた。
これからは、自分らしいリズムで、SNSと付き合っていければいい。
はじめは、誰かに心配されるかもしれない。
「最近投稿してないね」「何かあったの?」
でも、それって本当に、私のことを心配してくれているんだろうか。
いつもタイムラインにいた美咲がいないことで、
その人自身が、少し不安になるだけかもしれない。
私も、ずっとそうだった。
誰かの投稿が途切れると、理由もなく、なんとなく落ち着かなくなった。
きっと、みんな少しずつ、そんなふうに支え合っていたんだ。
それはそれで、悪いことじゃない。
でも、私は、そこから一歩だけ、外に出てみたいと思った。
主人公の美咲が距離を置こうと決めたSNS「Instagram」は、2010年に米国で開始され、2014年に日本語版がリリースされました。美咲が大学1年の頃はまだ普及の途上でしたが、彼女が友人と学生生活を満喫していた2016年には1600万人を超え、2019年には3,000万人に達しました。現在(2024年1月)は、日本国内で6,600万人が利用しています。 |
■旅の舞台|香川県・女木島(めぎじま)について

香川県高松市の沖合4km、フェリーで約20分の場所に浮かぶ女木島(めぎじま)。
「鬼ヶ島伝説」で知られ、島の中央部には鬼の居城跡とされる鬼ヶ島大洞窟があります。
瀬戸内の穏やかな風景に包まれたこの島は、瀬戸内国際芸術祭の会場としても知られ、島内の各所に現代アートが展示されています。
2025年は、瀬戸内の島々を舞台に3年に1度開催される現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭2025」が開催されます。
会期は春(4/18〜5/25)・夏(8/1〜31)・秋(10/3〜11/9) の3シーズン。
季節ごとに異なる瀬戸内の風景と、島ならではのアート体験が楽しめます。
「どこかへ旅する。」は、旅先でふと見かける誰かの心模様を描く掌編小説シリーズです。主人公の旅を通じて、日本各地を紹介します。 |
関連サイト
✅港まで徒歩圏内の高評価ホテル・宿をご紹介!【PR】
»JRホテルクレメント高松・・・港の目の前で収容力もあり
»ホテルウィングインターナショナル高松・・・繁華街隣接(2021年OP)
»TEN to SENゲストハウス高松・・・高評価ゲストハウス。栗林公園近く。
✔「瀬戸内国際芸術祭2025」会期中、高松市内はどこも混み合います。できれば平日で早めの予約を。