最近、岐阜県が「戦国のメインステージ岐阜」というメッセージを発信しているようだ。2020年秋には、関ケ原の戦いの地に大型施設「岐阜関ケ原古戦場記念館」を設立。来月10月は「大関ケ原祭」という2万人規模の大型イベントを開催する。今年3年ぶりとなり、記念館設立後初めてだからファンや関係者は期待を膨らませている。
9月初旬、記念館をはじめ関ケ原古戦場の史跡群を巡る機会があった。戦国に詳しくは無いので史実の解説はほどほどに現地をレポートしてみたい。(関ケ原町航空写真©関ケ原町)
関ケ原町古戦場巡り
岐阜関ケ原古戦場記念館|最新技術で約400年前の関ケ原にタイムスリップ
「岐阜関ケ原古戦場記念館」はJR東海道本線「関ケ原駅」から徒歩10分。関ケ原の戦いが行われた場所にある。関ケ原は古戦場というくくりがあり、今の関ケ原町全体で捉えてゆくイメージだ。
記念館は戦国時代の終焉1600年の関ケ原の戦いから420年後にオープンした。話を聞いた小和田哲男館長は、「天下分け目と言われた戦いの現場にタイムスリップして欲しい」と言う。
別館レストランで食事を取ってから記念館に入ろう。施設内は撮影禁止エリアも多いので気に留めておくと良い。1階「グラウンド・ビジョン」で関ケ原の戦いを俯瞰して見る。床面スクリーンに全国を舞台にした東西陣営の戦いの軌道が映る。最終決戦は関ケ原でも、そこに至る武将たちの動きは全国広域だ。いつも思う。現代人より小柄で粗食、原始的医学。当時の平均寿命は武士が42才・庶民は30才位の時代。その人間が全国広域で動くことを想像してみる。どうしたらそこからあそこまで移動できるものだろう。不思議でならない。
次は大迫力の最新シアター映像、貴重な収蔵品展示へ。展望室から古戦場を一望して関ケ原の戦いを感じる。きっと誰もが東西陣営のどちらかに肩入れするようになる。せっかくだからどちらかの陣営や、武将を自分の推しにしてから史跡を巡りたい。周りの影響も受けてか西軍(石田三成)を応援する気分になっていた。
徳川家康最後陣地
東軍を率いる徳川家康は開戦時、東軍軍勢の背後・桃配山から戦況を判断。その後、石田三成本陣に近いこの最後陣地に移動した。味方が討ち取ってきた敵将を家康自らが首実検した場所があった。念のため囲いの内側には入るのは止めといた。
石田三成陣跡
西軍を率いる石田三成は関ケ原の盆地を見渡す笹尾山に陣を敷いた。見晴らしが良いが自陣の動き敵から良く見えそうだ。関ケ原のマストアイテム・布陣図と向こうの山々を照らし合わせる。目は開けながら心の目を閉じ、武将たちを想像するというテクニックを使いたい。
決戦地
石田三成陣跡のすぐ前方に位置。東西陣営の最大級の戦いが繰り広げられた。記念館からだと笹尾山のなだらかな丘陵を上っていく所。広々して四方に見晴らしが良く、両軍の軍勢が埋め尽くす光景が浮かんでくる。決戦地的な風が吹いていて徳川・石田の家紋入りの旗がなびいていた。
島津義弘陣跡
西軍、薩摩の島津義弘が陣を敷いた場所。義弘は石田三成の側面の守りを任された。開戦後は自陣に近寄る相手を打ち払う姿勢だった。義弘が関ケ原の戦いで名を残したのは西軍敗戦後の行動だ。
敗れた西軍が背を見せて逃れる中、東軍の群に正面突破で駆け抜け逃れた。今でも新鮮な逃走劇だ。勇敢な義弘は鹿児島の人達から絶大な人気だ。関ケ原町と日置市(鹿児島県)は姉妹都市を結んでいて、毎年、日置市の小中生達が関ケ原に来て、義弘が通った道のりを歩くそう。
開戦地
1600年9月15日未明、東西陣営の武将が着陣。午前8時頃、東軍の松平忠告と井伊直政が、西軍の宇喜多秀家隊に発砲して開戦した地。石碑の前方は人が踏み入れないような背の高い草村が広がっていた。荒々しい風景で開戦地に似合う。
徳川家康最初陣地
開戦時、徳川家康は3万の兵を率いて東軍軍勢の背後、桃配山に陣を敷いて指揮を取った。確かにこれまでの史跡より奥まった方角の場所だった。今は国道21号線の横の少し高台にあり、広々したガソリンスタンドの脇から細い階段を上った。
戦国のメインステージは広域で巡りたい
これまで巡った史跡はほんの一部。関ケ原古戦場一帯には東西陣営の様々な武将の陣跡がある。武将により90分~120分のウォーキングコースや、10km程度~最長100kmの関ケ原古戦場や西濃・岐阜地域の広域を巡るサイクリングコースもある。記念館のレンタサイクルが使える。自分の滞在時間に合わせて過ごせるだろう。
また、関ケ原町の隣、垂井町には合戦の兵火で焼失し、徳川3代将軍家光が再建した金属業の総本山、南宮大社。その隣、大垣市には合戦前日、石田三成ら西軍主力部隊が拠点とした大垣城がある。当時、強固な城門を備えた大垣城で開戦していたら戦況はどうなったのか。歴史は勝手に妄想するのが良い。
関ケ原の史跡巡りは、いつもと少し違う旅の後味があった。
遥か昔予備校時代、全国模試の日本史で100位以内を連発していたことを思い出した。戦国は得意だったが、予備校講師に教わった暗記術で覚えた知識は大学1年の夏の陣をむかえる前にはほぼリセットされていた。その後、たまに思い出そうにも思い出せず、いつの間にか日本史に苦手意識を持つようになっていた。
関ケ原は歴史的建造物や絶景を楽しむというより、盆地の向こうの山々を眺め、陣跡を歩いて思いにふけるというのが似合う。現地で話を聞く時はある程度の予備知識を持っているのが良いだろう。
関ケ原の深みが分かってきたのは東京に戻ってからだ。何故か急に戦国を知りたくなった。歴史小説を買い、日本史系YouTubeチャンネルを視聴し始めた。やはりというか、「戦国・小和田チャンネル」は面白い。そう、岐阜関ケ原古戦場記念館館長のチャンネルだ。史実を淡々と語り、定説と新説の論争にも触れる。印象的なのは、『新しい説は多くの研究者が「それがよい」「それが正しい」と支持すれば、それが次の定説になる。』と強調していることだ。
今回、関ケ原を訪問して日本史に興味を持てるようになり、生活に楽しみが増えた。
戦国アトラクションと、産業機器メーカーの取組み
関ケ原には戦国武将の史跡の他、武将がテーマのアトラクションスポットがある。史跡巡りの途中でも後でも一息つくように体験するのが良い。また、関ケ原の最後、関ケ原に来なければ知ることができなかった企業を知れた。
昭和レトロなテーマパーク「関ケ原ウォーランド」
関ケ原の戦いをユニークな武者像で再現した施設。3万㎡の敷地に東西陣営の武者像207体を展示している。カラフルな武者像が敷地の隅々で戦っている。施設のエントランスから昭和レトロがぷんぷん。令和4年こういう施設が残っているのは嬉しい。営業10:00~16:00(12~3月は15:00迄)、料金おとな500円・こども300円。
合戦の主戦場・笹尾山で甲冑体験「関ケ原笹尾山交流館」
決戦地と石田三成陣地近くの甲冑体験ができる施設。レプリカの甲冑を着用して記念撮影や史跡散策へ。甲冑の装着に少し時間がかかる。グループなら皆で体験するのが良い。人数が多すぎると2班に分かれる場合も。営業10:00~16:00、料金こども甲冑1,100円~スペシャル甲冑4,400円(体験時間90分)。
産業機器メーカー「関ケ原製作所」が運営する人間村?
最後は武将観光から離れ、地元企業が運営している広場と同社の理念を紹介したい。1946年創業で油圧や船舶などの産業機器メーカー㈱関ケ原製作所がある。グループ売上223億・従業員数550名という規模。
同社は13万㎡の自社敷地内に広大な芝生の広場を設けて、彫刻やカフェや食堂、美術館などがある「せきがはら人間村」を運営している。この広場には地元住民、観光客の出入りも自由だ。
同社は企業は利益をただ追求するために存在するのではなく、人々が出会い学びながら互いに高め合う「人間ひろば」と表現する。
転換期は70年代のオイルショック。当時、同社もかなり人員整理をした。それを傷と受け止め、「人を犠牲にした経営再建は放棄する。愉しく働きながら成長していく人間主体の経営をしていく。」と決意した。その根っこには、創業した矢橋(やばし)家の3つの家訓、「陰徳を積め」「商売に頼るな」「書画骨董に親しめ」。創業時、何も持たず人間の可能性にかけて事業を興した経験があったからだ。
過疎問題も抱える関ケ原で産業機器メーカーがなぜ? 広場は財務面だとコストだ。成長が止まった日本経済。企業はコスト削減で経営を維持し、内部留保している時代だったかと。今回、案内してくれた関ケ原ゼネラル・サービスの山口知加さんが、「当社の企業活動の意識はひろば経営が51%、事業経営が49%です。事業は今の規模で維持されるのがちょうど良い。」と言ったのが印象的だった。
ここで多く解説できないが、もっと興味深い歴史、ターニングポイントがあるだろう。岐阜県関ケ原町にはこのような企業があることを知って欲しいと思った。
10月は2週続けて3年ぶりの戦国イベント開催
最後に告知を。10/8(土)~10(日・月)の3連休。「大関ケ原祭2022」(主催:岐阜県)が開催される。大型音楽フェスばりの規模。戦国なんて知らなくても楽しめるプログラムだ。また、10/15(土)・16(日)には「関ケ原合戦祭り2022」(主催:関ケ原町)が開催される。こちらの方がマニアック。来年のNHK 大河を意識してか、徳川家康をポスタービジュアルに起用している。
取材協力:岐阜県観光資源活用課